明治38年11月15日
香川県で生まれる。

明治44年
一家と共に北海道虻田郡留寿都村に移住。指圧療法を開眼する。

大正14年3月20日
警視庁のマッサージ術試験に合格。

大正14年9月
室蘭において指圧治療所の看板を掲げて開業。

昭和3年5月
札幌ススキノに治療所を移転。

昭和6年2月27日
長男徹(二代目浪越指圧後継者)が生まれる。

昭和8年3月
指圧を天下に広めようとの大望を抱き上京、東京九段下に本部を設置。

昭和15年2月11日
紀元節の佳日に日本指圧学院を文京区表町(現小石川)に創立。

昭和19年11月26日
指圧師養成1000名記念「一指救国指圧大講演会」を日比谷公会堂にて開催。聴衆3千名を集める。

昭和20年5月25日
米軍機B-29の大空襲により指圧学院全焼。焼け跡にて「一指万物を生ず!」と大空に叫んで復興を決意する。

昭和21年5月25日
指圧学院全焼から1年後、焼け跡へ新校舎を建設。

昭和28年9月
長男徹と共に米国アイオワ州ダベンポート、パーマスクールからの招聘で渡米。日本で生まれた指圧の指導と講演を行う。4ヶ月間米国各地での指圧を普及。

昭和29年2月9日
世紀の女優マリリン・モンローを指圧する。その後も計7回の指圧でマリリン・モンローを指圧の愛好家にする。そして世界に指圧の浪越徳治郎として名声を馳せる。

昭和30年2月
各種学校「日本指圧学校」として認可される。

昭和32年3月28日
厚生大臣より正式に指圧師養成校の認定を受け、厚生大臣認定日本指圧学校として発足する。

昭和34年10月
東京都あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師及び、柔道整復師の審議委員に任命される。

昭和34年10月1日
東京都各種学校協会の常任理事となる。

昭和34年11月3日
日本指圧協会会長に就任。

昭和38年4月11日
浪越家直系の孫、孝が生まれる。

昭和39年3月20日
全国養成施設協会副会長となる。

昭和39年10月
東京オリンピック開催のためイタリアオリンピックチームの専属マッサージトレーナーとして来日したルディ・パロンビーニ氏が指圧に興味を示す。後に指圧を修得しイタリアに指圧を紹介する。

昭和43年1月
NETテレビ(現テレビ朝日)のアフタヌーンショー「指圧教室」にレギュラー出演。「指圧の心は母ごころ押せば生命の泉湧く」のスローガンで3年間放映される。全国に浪越徳治郎の名前と指圧療法を広める。

昭和43年4月
東京都指圧師会会長に就任。

昭和44年10月10日
フジテレビの「小川宏ショー」の初恋談義に出演したのが縁となり41年目の恋が実り、初恋の人千枝さんとテレビ結婚式が全国に放映され、パレスホテルで800名を超す招待客に祝福されて結婚披露宴が行われた。

昭和48年12月
米国カンサスシティでの医療研修会で指圧の講演が大盛況で高い評価を得る。

昭和48年12月
ペンシルバニア州ディーア・レイク村で試合に備えキャンプトレーニング中のモハメッド・アリを指圧する。

昭和53年
社団法人東京都専修学校各種学校協会の評議員に推薦される。

昭和56年
専修学校規定による認可に基づき「日本指圧専門学校」に昇格し校名を改称。

昭和57年11月1日
保健衛生の貢献により東京都功労者として都知事表彰を受ける。

昭和57年11月3日
「喜寿を祝う会」を京王プラザホテルにおいて友人、同志、卒業生、家族により盛大に開催。

昭和58年4月29日
昭和天皇誕生日の佳節において、春の叙勲者発表があり永年にわたる保健衛生の功績が認められ勲四等旭日小綬章の勲記と勲章を授けられる。皇居豊明殿において天皇陛下より親しくお言葉を頂き、身に余る光栄に浴す。

昭和60年11月3日
「傘寿を祝う会」をホテルニューオータニで開催。風雪80年の人生と指圧道精進60年を祝っていただく。

昭和62年
バラエティー番組「ビートたけしの元気が出るテレビ」で、ジェットコースターに乗ったことにより若者を中心に人気爆発。たけしさん命名によるアッハー浪越からジェット浪越となる。

昭和63年
富田靖子主演映画「ほんの5グラム」で、パチンコ屋に通う老人役で出演。

平成元年
津川雅彦主演映画「善人の条件」で津川雅彦さんが演じる政治家の対抗馬役として抜擢され出演。

平成4年11月3日
「米寿を祝う会」をホテルニューオータニで開催。後継者を長男徹に託し、校長職を含め、事実上の実務を徹に一任する。

平成6年5月20日
長男徹が現役校長のまま急逝。89歳にて再び、校長職復帰。

平成10年
校長職を副校長であった浪越満都子(長男徹の妻であり昭和58年から指圧実技教員としての実績を認められる)に一任し、今後の浪越指圧の正しい継承を満都子に託す。

平成12年9月25日
94歳の人生を終える。